昭和2年誕生 ゴーフル

ゴーフル物語

大正15(1926)年頃、洋行帰りのお客様がフランスの焼菓子を持参され、「日本でもつくってみてはどうか」と提案されたのがそもそもの発端なのであります。 当時の和洋菓子の技術者が、和菓子作りの伝統と洋菓子作りの進取の精神で試作研究に取り組みました。



フランスの焼き菓子を真似るのではなく、日本人の嗜好に合うようにと、 フランス製の長所を存分に生かしつつ和菓子の長所をも取り入れ、試作・研究に没頭いたしました。 その苦心が実を結び、発売にこぎつけたのは昭和2(1927)年のことでありました。

 

 

発売当初の製法や機器は、現在のものとはかなり違いがございます。ゴーフルは、二枚の「せんべい」状のものを合わせて一組としていますが、当時その「せんべい」は、 神戸名物でおなじみの「大瓦せんべい」と同じような焼き方をしておりました。焼き機は径六寸(約18.2cm)型で、火床は木炭を主燃料とし、一枚ずつ表・裏をひっくり返しながら焼きます。焼き上がると、 いちいち手でクリームサンドして一組ずつ仕上げていくという、今では考えられないほど手間と費用をかけておりました。

 


このため一日の生産量は800枚程度にすぎず、売価は1枚8銭でありました。ちなみに、その頃の雑誌広告などを見ると、浴用石鹸1個10銭、キャラメル1箱5銭、ハヤシライス25銭、ランチ50銭などとなっております。

 

 

従来の和洋菓子にはない独特の口あたりや感触、香気を持つゴーフルは、最初のうちは進物用に利用される程度で、一般に浸透するには相当の時間を必要としました。数年を経てようやく販売量が上向きはじめましたが、 時期が悪かったのです。第二次世界大戦中の原料統制により、やむなくゴーフルを製造中止することになりました。


戦後、ゴーフルの生産を再開したのは、ようやく原料が手に入るようになった昭和26(1951)年のことであります。 以後、良質な原料入手や品質向上へのたゆみない努力、甘辛のれん街への出店、 積極的な広告活動などによって次第に知名度が高まり、販売実績も順調に伸びていきました。

 

 

こうしてゴーフルが広く世間に知られ、同業者からも注目されるようになると、 全国各地で類似品が出回る兆しが見え始めました。 しかし、「ゴーフル」の名称がそのまま流用されたのでは商品保護に支障を来しますし、 品質が劣るような商品が出回ったのでは信用問題にもかかわってきます。 そこで企業の当然の自衛手段として、また品質を維持向上するための手段として、 昭和27(1952)年、特許庁に『ゴーフルの商標と意匠の登録』を出願し、同年意匠のまた翌昭和28(1953)年には商標の権利を取得いたしました。

 

 

 

ゴーフル手塗り風景

復活の原点となったゴーフルの缶容器

神戸風月堂の包装紙

神戸凮月堂のお菓子を通じて、神戸の街を知っていただきたいとの願いをこめて、
昭和32年、この包装紙ができあがりました。
神戸の街を代表する個性あふれた建物を配置し、描きました。
昭和32年10月、第2回神戸市包装紙コンクールにて、市長賞受賞。
建物のイラストは時代と共に移り変わっています。

神戸風月堂包装紙